歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
・・・・・
マッカーサーとは何者か
~「詭動の達人」は詭弁家でもあった
高知大学名誉教授 福地惇
「兵とは詭道なり。故に能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれを近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれを撓し、卑にしてこれを驕らせ、佚にしてこれを労し、親にしてこれを離つ。其の無備を攻め、その不意に出ず。此れ兵家の勢にして先には伝うべからざるなり」
「詭道」とは、敵の意表を突く行動、つまり謀略・詐術・惑乱戦術を駆使して優勢を占め、敵を打ち負かす道理のことである。兵学の用語だが、もちろん政治にも完全に適用できるのである。
マッカーサーはさすがに軍人、「詭道の達人」であったと私は感銘する。だが、日本的な武士の情けを知る武士ではない。ましてや人徳豊かな大政治家とは言い難い。完全武装解除されて抵抗力を剥奪された敗戦国に対して、一介の武弁に過ぎないのに善人・大政治家ぶってワンサイド・ゲームであること明瞭な第二の戦争=占領国管理統治を楽しんだ、としか私には思えない。
彼は敗戦国の小間使い的政治家を巧みに使嗾した。時には聖人・英雄風を吹かせて恩を着せ、宥(なだ)め賺(すか)し、時には威圧をかけて脅迫して己の目的をのませ、見事に敗戦国を自分好みに改造した。
そればかりか、敗北国民に敗北者根性を尊崇させる目的を持つ思想戦争を「詭道」を以て強力・巧妙に遂行した。天皇陛下の下、恩忍自重して神妙にして従順だった日本政府はじめ国民は見事に「詭道の人」の餌食となったと言ってよい。時の政府がGHQに対応する唯一の国家機関であった以上、占領期間中の我が国の政府首脳部の政治責任は、敗戦責任に劣らず重かったというべきだろう。
丸腰の敗戦国政府を操縦し、「戦争に懲り懲りの」日本国民を誑(たぶら)かすのは赤子の手をひねるようなものであったろう。日本人は「十二歳の少年」である。その集大成ともいえるのが、国家の基本法である憲法を日本人製と詭弁して下賜したことである。
吉田茂は「負けっぷりをよくする」などと腑抜けた戯言を吐いたが、潔さというものは日本の古武士には通じても米国の軍人には日本人の脆弱性としか映らない。1951(昭和26)年4月、トルーマンに解任されて離日する際、マッカーサーは「日本国民は、勝者に媚びる国民である」という侮蔑の言葉を吐いている。
以下にいくつか引いてみよう。
「日本政府が降伏条項を受諾した後、その実行に当たるのは私の仕事になった」と、ポツダム宣言と降伏文書の条項を執行するのが任務だと自覚している。だが頭隠して尻隠さずで、「私たちはポツダム宣言の諸原則によって、日本国民を奴隷状態から解放することを約束している。私の目的は、武装兵力を解体し、その他の戦争能力を消滅させるのみ必要な手段を取ると同時に、この約束を実行することである」と強弁するが、ポツダム宣言は「吾らは日本人を民族として奴隷化せんとし、または国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ず。(中略)日本国政府は日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし」と謳っているのであって、マッカーサーはこの条項を逆さ読みして占領政治に都合よく活用したのである。
さらに、「改革は日本人自身によってはじめられねばならない。東京在任中、この考えは常に私と幕僚たちの指針となった」と記してもいるが、「占領の課題」なる章には、「私は日本国民に対して事実上無制限の権力を持っていた。歴史上、如何なる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対して持ったほどの権力を持ったことはなかった。私の権力は至上のものであった」と言い放ち、「占領目的」なる章の冒頭に、「私は五年以上もの期間、日本改革の仕事に取り組むことになった。私の考えていた改革案は、結局全部実現した」と誇負している。
しかも改革推進の法的根拠は、米国統合参謀本部が彼に訓令した「最高司令官の権限に関する通達」だという。国務省や統合参謀本部の通達は、本国政府が現地司令官に示した政策方針でありその心得である。それは、我が国の与り知るところではない。マッカーサーは内達を法的根拠として『無条件降伏』した敗戦国を自らの思うように改造して何が悪いのかと言っているのである。しかし、連合国と我が国が取り交わした約束は、ポツダム宣言と降伏文書以外にないのであって、ポツダム宣言は「有条件」の国際協定である。
・・・・・・・
*人気ブログランキング(歴史部門)に参加しています。
ここをポチッとご協力お願い申し上げます。